ここでは、言語学、記号論、構造主義、認知心理学っぽい話を書こうと思います。えい、や〜っとかなり荒っぽくやりますので、えっと、参考程度に読んでいただけると嬉しいです。というわけで、第2回目、いってみましょう!
■Vol.2:ことばはモノの名前じゃない
時は遡ることギリシャ時代。当時「ことば」は「モノにつけた名前」だと考えられていました。「神様は自分で創った生き物に対して一つ一つ名前をつけた」と聖書にも記されているとおり、まず何か「モノ」があってそれに対して人間(神様!)が好き勝手にあとから名前をつけたのが「ことば」なのだというのがこの考え方です。
なるほど!確かに僕も子供が産まれた時には必死で考えて名前をつけました。この考え方、一見すごく自然に思えまるのですが、う〜ん、ちょっと待ってください、本当にそうなんですかね?
実はこの考え方って、名前を付けられる前から「モノ」がすでにそこにあった(実在していた)という前提の上でしか成り立ちません。でも、もしそうだとしたら、日本語や英語といった言語の違いで、ある「ことば」の持つ「モノ」の範囲が変わってしまうのはどうやって説明したらよいでしょうか?
「なんだよいきなり「モノ」の範囲って?」って感じですよね。日本語や英語といった言語システムの違いには、実は「モノ」の範囲の違いが含まれています。具体的に説明してゆきましょう。
日本語という言語システム内では、同じ親を持つ男性をその産まれ順により「兄」「弟」とその違いをはっきり区別する単語がそれぞれ存在します。でも英語の"brother"にはその区別がなく、また単語一つでこの区別を表す「ことば」はないんです。どうしても区別する場合には「elder
(big) brother」「younger (little) brother」と2単語使って表現しなければなりません。
もし「ことば」がすでに実在していた「モノ」に対して個別に割り振られているとしたら、他言語間でこういった区別の違いはおこるはずがないとは思いませんか?「兄」という「ことば」がこっちの言語に単語としてあって、あっちの言語にはないなんてことはおこらないはずなんです。
このことで、僕達の住んでいる世界を構成する個々の「モノ」と、それを表す「ことば」が1:1で必然的に結びついているわけではないと言えちゃいます。言語が変われば、世界の区切り方(「モノ」の範囲)は変わってしまうということなんですね〜。なんとなく、わかりますでしょうか?(つづく)
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