ここでは、言語学、記号論、構造主義、認知心理学っぽい話を書こうと思います。えい、や〜っとかなり荒っぽくやりますので、えっと、参考程度に読んでいただけると嬉しいです。というわけで、第4回目、いってみましょう!
■Vol.4:とてもいい加減なことばの仕組み
ここまで見てきたとおり、「ことば」が意味する範囲を決め、どの「モノ」を指すかは全てそれぞれの言語システムによって決まっています。逆をいうなら、「ことば」はその言語の使われている文化・社会をベースに“適当”に決まっているだけなんです。これ、結構びっくりですよね?言語システムが適当ってどういうことでしょう?
もう一度日本語の"兄"と"弟"の例で説明しますね。日本語では男性のキョウダイのうち、年上の方を"兄"と呼びます。でも別に"弟"と呼んだって、全く違うことば(蟹とか球とか黒とか)を使ってもよかったわけですね。どなたかは知りませんが、キョウダイのうち先に産まれ性別が男である「モノ」をたまたま"兄"と呼び、周りのみんなもそれで納得したというだけという話です。「モノ」とその名前の関係には、それでなくてはだめ!という必然性がないんです。日本語で"犬"と表す「モノ」を英語では"dog"、フランス語では"chien"と表します。でも、「イヌ」の表し方としてどれが正しいとか間違っているなんて言えないし、そんなことを問題にしても意味がないんです。
このような「ことば」の特徴をソシュールさんは「恣意性(しいせい)」って呼びました。平たく言っちゃうと、"気まぐれ"とか"いい加減"という意味です。先程、「ことば」とは世界に実在する「モノ」の名前ではなく、反対に「ことば」で世界を区切ることによって「モノ」は産まれると説明しました。しかもその区切り方は、使っている人達の"気まぐれ"で決められる。言語が実世界に縛られることのない独立したシステムとして複雑化したのもそりゃ〜当然ですよね。言語が複雑になれば、観念は同じ様に複雑化するし、当然のことながら言語を使って思考する人間の精神も複雑化されることになっていったというわけです。
自分の話す言語以外のネイティブスピーカーとコミュニケーションをとった経験のある方はおわかりだと思いますが、僕ら日本語のネイティブスピーカーとは、「モノ」の捉え方(つまりは区切り方)が全然違います。日本語にはない単語が多数存在する言語もたくさん存在しますよね。これはどういうことかというと、言語システムの数だけ、思考も多様化しているというわけなんですね〜。実に面白いですよね!僕ら人間の言語が恣意的(つまりはいい加減)だからこそ、そのシステムを進歩させる道が開かれていたなんて!(つづく)
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