第2回:セーレン・キルケゴールさん
自分オリジナルな真実を探し出し、
それを信じることが大事なんだぜ
第2回目はですね、実存主義の創始者と呼ばれるキルケゴールさんをつまみ食いいたします。前回のマルクスさんもそうですが、このキルケゴールさんも、実はヘーゲルさんという方の影響を物凄く受けております。そして、マルクスさんとは違うやり方で、ヘーゲルさんを乗り越えようと頑張りました。
■大切なのは、あくまでも自分の存在
では本題です。ヘーゲルさんは誰にとっても客観的に正しい真理を重要視していました。ところが、キルケゴールさんはまったく逆。「人間っていうのはさあ・・・」とすべての人間を一緒くたにして、普遍的な人間の本質とかを説明するなんて意味ないじゃないかと考えます。そして、「重要なのはオレたち一人ひとりが、1度きりの人生を個人として生きているってことだぜ」と言うのです。つまり、“個人”が事実として存在していること、そして、“個人”が自分の存在に向き合ってどう生きるかを決断すること、更には、“個人”が自分のくだしたその決断に対して自分で責任を持つことが大切なんだ、と主張します。
■普遍的な真理より、自分だけの“真実”が大事
すべての人間にとって普遍的な真理や真実の探求について、キルケゴールさんはまるで興味がありません。それよりも、一個人にとって意味のある真理を、一人ひとりが自分で探し求める方があくまでも重要なんだ、と考えました。彼はこう言います。「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそのために生き、そして死にたいと思うようなイデー(理念)を発見することが肝要」である、と。
なんでこんなことを考えたのかというと、キルケゴールさんが生きていたのが、社会の水平化と大衆化が推し進められていた時代だったからのようです。みんなの言っていることの方が正しい。世間で流行っているものの方がかっこいい。個人の意見(真実)が押し流されてしまうそんな風潮に、キルケゴールさんは堪えられなかったわけですね。
■信じることも真実
個人にとっての“真実”を大事にする考えは、信じることにもそのままつながります。キルケゴールさんはキリスト教信者だったので、神を信じるとはどういうことかを考えました。で、たどり着いたのは「理論的に証明できないからこそ、オレは神を信じることができるんだぜ」という結論です。頭でどう考えたって不条理で納得できないからこそ、信じるしかないんじゃないか、と言うのです。
要するにこういうことだと思います。僕は個人的に無宗教であり、キリスト教の神様は信じていません。でも、一般的に“神”と言われている存在というか営みは信じています。もちろん、その一般的に“神”と呼ばれる何かを僕には証明することはできませんし、どうして信じているのか理由を聞かれても「だって、信じちゃうんだもん」としか答えられません。つまり、本当の意味で信じることっていうのは、客観的であるとか、理論的に証明可能であるとかなんて、まったく問題ではない、ということのようです。なんだかよくわからないし、うまく説明なんてできないけど、それを信じちゃう僕。その事実こそが真実なんだと、キルケゴールさんは言うのでした。
■あとがき
「他ならぬこの私」、かけがえのないたった一人の“事実という存在(実存)”。この実存に関しては、あとでまたサルトルさんをご紹介する時に突っ込んでみたいと思います。それにしても、キルケゴールさんの生きていた時代と、今僕が住んでいる日本は、似ているような気がします。不安と迷いを超えて、僕なりの真実を見つけられたらいいなあ・・・。
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